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酒になった清水「強清水」伝説と茶屋 1
2025/02/28

ふくしまの水三十選にも選ばれる、名水「強清水」。
かつては、白河と二本松を結ぶ滝沢峠の上にあり
清水湧き出るお休み処として親しまれてきました。
現在は、いわき市と新潟市を結ぶ国道49号線沿いに位置し、
保存食のスルメや身欠きニシンの天ぷら蕎麦が楽しめる
今も昔も変わらない、旅の疲れを癒すオアシスです。
昔、この地方で日照りが続いたことがあった。5月から8月までの100日の間、
一つぶの雨もふらず、猪苗代湖の水もかれて底が見えるほどだったと言う。
田畑の作物という作物は赤くかれてしまい、まいた種は芽を出さなかった。
そのころ、会津若松市の北方にある大久保山のふもとに、木こりの父と子が住んでいた。
父は与曽一、息子は与曽二と言った。
父親の与曽一は、それはそれはまじめな働き者で、
毎日山へ出かけては木を切りわずかなお金をかせいでいた。
それにくらべて、息子の与曽二はなまけ者で、いつも酒を飲み、賭け事に明けくれ、
あげくのはてには、野武士の仲間に入って、追いはぎまでするほどになってしまった。
父親の与曽一は、こんなときのためにと、少しではあるが、
食物をたくわえておいたので、死ぬようなことはなかった。
息子の与曽二は、村の人々は、だれも相手にしてくれず、食べ物も恵んでくれなかった。
与曽二は、腹がへって、やっと生きているようなありさまで、ねてばかりいた。
ある日の夕方、山から帰ってきた父親はいい機嫌であった。
赤い顔をして、お酒のにおいがしていた。
次の日の夕方も、その次の日の夕方も、父親はほろ酔い機嫌であった。
食べ物もないというのに、毎日のようにお酒を飲んで帰ってくる父親が、
きっとどこかに食べ物やお酒をかくしておいて、
自分ばかりたらふく食べたり飲んだりしているにちがいないと考えた。
そこで、与曽二は、父親がひとりでごちそうを食べているところを見つけて、
全部自分のものにしてやろうと思い後をつけた。
父親は、一日中せっせと働いた。お日様が西の空にかたむき、
まがったせなかに夕日を受けながら、帰り道についた。
とある木かげで足を止めた父親は、岩の間からあふれ出る清水を
そばの石に腰をかけて休みながら、何度も飲んだ。
すると、すぐにいい機嫌になって、歌さえ口ずさんでいるではないか。
与曽二は、その清水が酒の清水にちがいないと思った。
>>>つづく
かつては、白河と二本松を結ぶ滝沢峠の上にあり
清水湧き出るお休み処として親しまれてきました。
現在は、いわき市と新潟市を結ぶ国道49号線沿いに位置し、
保存食のスルメや身欠きニシンの天ぷら蕎麦が楽しめる
今も昔も変わらない、旅の疲れを癒すオアシスです。
昔、この地方で日照りが続いたことがあった。5月から8月までの100日の間、
一つぶの雨もふらず、猪苗代湖の水もかれて底が見えるほどだったと言う。
田畑の作物という作物は赤くかれてしまい、まいた種は芽を出さなかった。
そのころ、会津若松市の北方にある大久保山のふもとに、木こりの父と子が住んでいた。
父は与曽一、息子は与曽二と言った。
父親の与曽一は、それはそれはまじめな働き者で、
毎日山へ出かけては木を切りわずかなお金をかせいでいた。
それにくらべて、息子の与曽二はなまけ者で、いつも酒を飲み、賭け事に明けくれ、
あげくのはてには、野武士の仲間に入って、追いはぎまでするほどになってしまった。
父親の与曽一は、こんなときのためにと、少しではあるが、
食物をたくわえておいたので、死ぬようなことはなかった。
息子の与曽二は、村の人々は、だれも相手にしてくれず、食べ物も恵んでくれなかった。
与曽二は、腹がへって、やっと生きているようなありさまで、ねてばかりいた。
ある日の夕方、山から帰ってきた父親はいい機嫌であった。
赤い顔をして、お酒のにおいがしていた。
次の日の夕方も、その次の日の夕方も、父親はほろ酔い機嫌であった。
食べ物もないというのに、毎日のようにお酒を飲んで帰ってくる父親が、
きっとどこかに食べ物やお酒をかくしておいて、
自分ばかりたらふく食べたり飲んだりしているにちがいないと考えた。
そこで、与曽二は、父親がひとりでごちそうを食べているところを見つけて、
全部自分のものにしてやろうと思い後をつけた。
父親は、一日中せっせと働いた。お日様が西の空にかたむき、
まがったせなかに夕日を受けながら、帰り道についた。
とある木かげで足を止めた父親は、岩の間からあふれ出る清水を
そばの石に腰をかけて休みながら、何度も飲んだ。
すると、すぐにいい機嫌になって、歌さえ口ずさんでいるではないか。
与曽二は、その清水が酒の清水にちがいないと思った。
>>>つづく